2022年、残すところあと何時間でしょうか。
こんにちは。
好奇心からの便りです。
「発つ鳥跡を濁さず」
その場から新たな別の場所へ移り去るときの言葉とされていますが、
新しいときを迎える場面にも当てはまるんじゃないかと思います。
この一年をふり返り、やり残したこと、気になっていること、そういったものの、こころの整理をするということになるのかもしれません。
個人的には、これまでなんとなく流されるまま一年を過ごし、なんとなくまた新たな年を迎えてきた、そんな気がしています。
新型コロナウイルスによって、世界中が翻弄されて3年余りが過ぎました。
未だに、とても多くの犠牲者が日々数字となって公表されています。
ほんとうならまだまだ健在で活躍しているはずの人が、あるいは、たくさんの人に愛されているはずの人たちが、誰かにとって大切な人が、信じられない形であっという間に遠くへ逝ってしまいました。
明日も共に語れるはずだった人が突然いなくなる。
コロナウイルスというもののために通常ではほぼあり得ないであろう規模で。
それが3年の時間を経ていろいろな制限こそ減少傾向にあるとはいえ、それでも今尚、失う命は世界中にみられ、もはやそれが普通のことのように見聞きされてきているような気もします。
誰しも、自分の5年先が、来年が、明日があるかどうかなんてわかりません。
ならば、やりたいこと、悔いが残っていること、そういったものを見つめ直してみる、あるいは勇気を出して挑んでみる、そんなことも必要じゃないかなと思います。
過去は記憶、未来は想像・・・という言葉を今年受け取りました。
「今この一瞬一瞬の積み重ねが人生であり、今この一瞬一瞬を生きている」
ということは皆、頭ではわかっているんですよね。
けれどもどうしてもこの先の未来のことをあれこれ思案してしまったり、過去を悔いてしまったりします。
過去からみればこの瞬間は未来なわけです。
あの過去に自分がいたとき、今日という未来が、どうかしあわせでありたい、そんな風に願ったりもしたことでしょう。
過去のマイナスな記憶への思いが甦り自信を無くすこともあるでしょう。
たとえその希望であった未来というものが今この瞬間に訪れていても、私たちはまたこの先のあしたのことを夢見たり、逆に思い煩ったりしています。
あの時望んでいた状況(未来)に今立つことができても、やっぱり今よりも先の場所(時間)に自分の本当の人生があるように錯覚します。
どんな人生になるんだろう?
常にそんなことを思いながらこの今、今、今を過ごしていませんか?
どんな人生……まさに今、この瞬間、瞬間、がそれなんですよね。
過去は記憶、未来は想像……でしかない。
過去がどんな人生であったとしても、それは記憶のフィルムでしか存在しません。
尚且つ、未来こそまさに今ここには存在などしないし、フィルムすら無いもの。
結局生きているのは今なんです。
なにかをやっているという体感は、今この瞬間しか味わえないということ。
ならばいやなことに気持ちやこころや行動を大切なこの瞬間に費やしたくはないものです。
「会いたい人に今年会えなかったとしても来年会えばいいや」などという、「いつかまた会える」という保証なんてないのです。
遠くに大切な高齢の親族がいらっしゃる方は、仮に1年に1度会えるとしても、あと何回会えると思いますか?
今年やり残したことはありませんか?
悔いのない、今この一瞬一瞬を感じて生きていきたいものです。