好奇心からの便り

好奇心旺盛に神々の出雲の国周辺や、日常の気になる情報をお届けします。

今朝の言葉 「疎遠でも誕生日にメッセージをくれる人は……」

お早うございます。

ご訪問いただきありがとうございます。

 

近年、年賀状を送ることを控えるようになった人が増えてきましたね。

「だってぇ~、SNSで《あけおめ》伝えられるし~ィ♪」みたいな?

そういうご時世ですものね。

 

ところで誕生日に「おめでとう」って言ってもらうことあると思いますが、年賀状と同じく、普段はほとんど交流がないのに誕生日だけはたとえ義理おめ(?)だろうが「おめでとう」ってLINEなどで言ってくれる人いますよね。

 

言った本人はあまり意識していないと思うのですが、あれって結構深い意味を持ちます。

 

それは……。

 

「家事の忙しい合間でしょうにありがとう」 の人、しまねのねっさんです

 

 

 

今朝の言葉

 

『疎遠でも誕生日にメッセージをくれる人は、一年間ちゃんと自分のことを覚えていてくれた人

 

なんです。

 

一年経ってまた「おめでとう」って言ってくれる。

相手が自分の存在を忘れていないから。

 

そんなことどうってことないじゃないって思いますよね。

 

認知症でもあるまいに、そんなに簡単に「おめでとう」って言い合うほどの過去に交流があった人のこと忘れないでしょって思いますよね。

 

もちろん365日思い続けているわけではないけれど、それでも誕生日が来たらメッセージをくれる、おめでとうと言ってくれる。

 

たとえ相手が義理で言ってくれたとしても、一年間自分を覚えていてくれた、もしくは思い出してくれたという事実がそこにあります。

 

それってよくよく考えたらすごくないですか?

 

だって私たちは生れてから命尽きるまでにどれほどの数の人と巡り会っているか。

その中で誕生日を覚えてくれている人がいるって、もうほとんど会うことも電話で話すことさえもしないのに、それでもその人の記憶の中にちゃんと自分が刻まれている。

 

誕生日が来たら思い出してくれる人がいる……。

その日、ふっと自分のことを一年ぶりに思い出してくれている。

 

誕生日に「おめでとう」って言ってくれるってそういうことですよね。

 

改めてそう考えるととても尊い気持ちになりました。

 

 

でも、もしかしたらお互いにこの「おめでとうメッセージ」のやり取りは負担になっている場合があるとも考えます。

 

贈る方も、贈られた方も。

 

お互いにやめるタイミングが掴めないでいることもあるかもしれません。

年賀状と同じで見せかけだけの交流になっているのかもしれません。

 

 

普段は全く交流が途切れてしまっていても、年賀状と誕生日のメッセージだけはやり取りが続いている友人がいました。

 

ある年のその友人の誕生日に、私はいつものように「おめでとう」とLINEを送りました。

 

するとその友人は

「誕生日のお祝いのLINEやめようと思って私は送らなかったのに……ありがとう」と言いました。

 

私は申し訳なく思いました。

 

彼女からメッセージが来なかったことなど全く気にはしていませんでしたが、同時に彼女の私に対する心遣いを察してあげることもできませんでした。

 

逆に私が彼女にメッセージを送ったことについては、もしかして自己満足だったのかもしれないと今ではそう思います。

 

『私はあなたのこと忘れていないよ、誕生日覚えているよ』そう無意識に伝えたかったのではないかなと。

それがどれだけ彼女に負担をかけたか。

 

そのために翌年からまた「誕生日おめでとう」のやりとりだけが再開されたのです。

彼女のためにも、もうやめにしようかなと考えています。

 

でも、彼女の誕生日が来るたびにきっと私は

「あ、今日は彼女の誕生日だ」そう思うに違いありません。

 

人の誕生日を覚えているのは、その人のことを一年間ちゃんと忘れていないからなのです。

 

 

そのことをあえて伝える必要はなさそうです。

 

 

ではまた。

好奇心からの朝の便りでした。

みなさま、どうぞ良い一日を。

 

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