この地球に生きていれば誰しも多かれ少なかれ良いこと、悪いこと、さまざまあります。
でも予期せぬ不幸は、とても冷静には受け止められるものではないのが私達です。
こんにちは。
好奇心からの便りです。
年明けからいろいろなことがありました。
「なぜ私たちがこんな目に合わなければならないの?」
当事者がそう思うのは当然です、無理もありません、みなそう思います。
「なぜこんな時に限って」「なぜこの日に限って」
そんな風にも言ったりしますよね。
逆に、そういった思わぬ大きな被害の出来事の外側にいる自分、つまりその現実に直接的に関わっていない人間にとって、それは、対岸の火事でしかその状況を感じ取れないことに、なんだか申し訳ない気にもなったりします。
と当時に、自分や自分に深く関わりのある人たちが平穏であったなら、ひとまずホッとするのも、正直、人間の性でしょうか。
当事者にとってはとても辛いことなのに、それに直面していない自分のそういった「他人ごと」のように受け取れる思いに罪悪感すら感じてしまいます。
さて、予期せぬ不幸な出来事に見舞われたとき、ともすると口にしがちな言葉、それは
「なぜ、私ばかり」「なぜ、うちの子が」「なぜ、今日に限って」
気持ちはとてもよくわかります。
でも、何か感じませんか?
抵抗ありませんか?
「ばかり」とか「……に限って」という表現、少し気になります。
誰であっても、どこであっても、いつであっても、辛い出来事、悲しい出来事は起こってほしくはありません。経験してほしくはありません。
「なぜうちの子があんな目に遭わなければいけないんだ、なんでうちの子なんだ⁈」
ある事件の被害者の父親の方がそんな風におっしゃっていました。
それは間違ってはいないし、そう叫びたいのはもっともです。
親なら当然です。
でも、誰であってもそんな辛い体験はしてほしくはないのです。
自分の子どもでなかったら誰でもよかった?
自分の住んでいない地域ならよかった?
今日でなかったらよかった?
そんなことはないはずです。
いつであろうが、どこであろうが、誰であろうが、被害者、加害者、被災地、事件現場、そんなものにはならない方がいいんです。
起きない方がいいんです。
もちろん被害者や被害者のご家族、あるいは親族などは、その出来事の辛い結果が
「自分とは関係ない人だったら」
「関係ない地域だったら」
「その日以外だったら」
誰でもいい、いつでもいい、どこでもいい、そんなつもりで言われたわけではないはずです。
気が動転して、頭がパニックになって、怒りの矢の矛先を見失って、そんなことでふいに口をついて出た言葉だと思います。
でもそれは聞く方からすると、とても複雑な思いに駆られますし、心が痛みます。
先日、能登半島地震の被災地で被災された中学生くらいの男子生徒さんだったと思いますが、インタビューを受けておられました。
その時の彼の言葉
「大変なのは自分だけじゃないので……」
頭が下がりました。
以上、好奇心からの便りでした。
お立ち寄りありがとうございました。
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