こんにちは。
好奇心からの便りです。
昨年末、とあるつぶやきにちょっと気になったことがあったので記しておこうと思います。
(役には立たない内容かもしれませんが……(^^;))
ある方が、あれこれ忙しい中、普段ご本人がやっている家事をご主人が手伝ってくださったことで、少しモヤっとした感情を抱いた、という風なことを仰っていました。
その意味についてご本人は、
「普段それは自分があたり前にやっていること。たまにはそれぐらいやってもらって当然」
「自分はこれらのことをいつもやっているんだ、不満も言わずあたり前にやっている」
というような気持ちであったようです。
以前、私が体験した就活のセミナーの中で、
「自分がいままで会社や家庭で、これを頑張ってきた、頑張った」
ということを書き出してみるというワークがありました。
そのとき私はしばらく考えていましたが、なかなか思い当たるものが浮かびませんでした。
何もない、そんな風に思いました。
それは、全てのことにいい加減とか、投げやりにとかの思いで物事にあたっていたというのではありません。
私の中では、自分がしてきたことは、たとえば社員としてすべきこと、家庭で主婦としてすべきこと、それらは
【やってあたり前、しなければならないこと、誰もがしていること、してきたこと】
そんな風にしか捉えていませんでした。
たとえ人があまり手を付けないようなことや、自分が新しい発想で構築したものがあったとしても、それらもあたり前のことと感じていた気がします。
なので、自分は、そのときそのとき、頑張ったかもしれないけれど、でもそれらをすることはあたり前だから敢えて頑張ったと言うほどのことには当たらない、「頑張ったね」と褒めてもらうようなことではない、そんな風に感じたのです。
このとき、セミナーに参加しておられたほかの方々は、
「家族のために○○を頑張ってきた」
「子育て中の多忙な中、ここを頑張った」
「仕事で任されたプロジェクトをしっかりやった」
「会社のためにこういうことを頑張った」
など、自分なりに一生懸命やったなぁと思えたことを書き出しておられました。
この方たちの感じ方、捉え方に異論を唱えるというのではありません。
彼らは彼らなりに自分自身が一生懸命やってきたという思いであることは本人だからこそ感じられることです。
結局、個人個人の捉え方の違いなんだろうなと思います。
すべきこと、そしてそれにプラスαしたもの、それらをこなしたところの充足感を
「あの時頑張ったなぁ」と捉えるか、プラスαのことまでしたとしても
「あたり前にしてきただけ」と捉えるか。
この記事の冒頭にあげた方は、普段自分がやっていることを家族がたまにやってくれても、それは自分にとって日常の作業で常にしている。
手伝ったからと言って偉そうな顔をされることではない。
そしてそれらを普段やっている自分に対して、感謝すらされない。
そんな思いがあったようです。
ですが、考えてみるとあたり前のことを日々黙ってやっている自分、ねぎらいの言葉はかけてもらえない自分。
そんな自分のしていることをたまにやってもらったからと言って
「やってくれるって、とうぜんでしょ、私は毎日やっているのよ」という思いを抱くことに対して、何か引っかかりを感じました。
自分が毎日頑張ってやっていること、大変だなと思いながらやっていることを、ある時ふっと家族がやってくれた、それってありがたいという感情はそのとき湧かなかったのかな? という疑問が浮かびました。
自分がいつもお風呂掃除をやっていて、たまに主人がやってくれていたりすると私はありがたいと思うし「ありがとう」と素直に言ったりもします。
(やり方については多少気になる部分もありますが、ダメ出しもしません)
たとえいつも自分だけが日々行なっている作業であっても、ある時誰かが気を利かせてやってくれたのであれば、そこに感謝の気持ちを抱くのか、それとも
「たまにやったからと言って偉そうにしないで」
というような思いを抱くか、更には、家族に対して
「普段やっている私にありがたく思いなさいよ」
などと感じるのか。
捉え方、受け止め方は様々です。
正解などないと思います。
正解はないと思うけれど、物事の受け止め方、捉え方、それらを少し角度を変えてみる。
すると新たな気付きや感謝、思いやりが見えてくることもあるんじゃないか、そこから他者との関係性も多少は変わるんじゃないか、そんな風にも思いました。
「今までこれは頑張った、と思えることは何ですか?」の問に
答「全て当たり前だと思っていたから、頑張ったとは感じていない」
……やってきたことは普通の当たり前なことだと思ってきた……
そう思ったら、なにかわからない思いが込み上げて少し泣けてきました。
お立ち寄りいただきありがとうございました。