好奇心からの便り

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恩は受けた側が感じるもの 押しつけは恩ではない

好奇心からの便りです。

 

みなさんは他者から恩を受けた場合、どんな感情を抱きますか?

 

恩を受けるといっても形は様々あると思います。

 

自分が困っている時に手を差しのべてくれる人がいた、そういう場合には本当に感謝の念が湧くでしょう。

 

しかし、相手が一方的に与えてくる何かしらの行動などであった場合は少々困惑したり、むしろ迷惑に思えたりすることありませんか?

 

すでに他界した私の身近な人がよく言っていたことがあります。

 

それは「あの人にこれこれこんなことをしてあげたのにそれをなんとも思っていない。当たり前だと思っている」とか、

「いつも自分がこれこれのことをしてやっている」

または

「自分が○○さんのためにこれをした、あれをした」

というように、自分のしたことについて良かれと思ってやったのに、周りの人間は感謝しないという風なことを口にしていました。

 

私はそんな言葉が遠回しに私自身にも向けられているような気がして、気持ちが萎えたことが何度もありました。

 

それって申し訳ないですが、悪く言えば恩の押しつけに思えたのです。

 

悪気はないのでしょうが、そういう思いで施された恩は果たして恩と捉えることができるでしょうか。

 

元首相、田中角栄氏の

「貸した金は忘れろ、だが借りた金は忘れるな」という言葉が残っています。

 

自分が他者に差し出した思い(配慮)は忘れても、他社から受けた恩は忘れるなということに結びつきます。

 

恩というものは発した自分が感じることではなく、受けた方が心に留めたものが恩であると思います。

 

 

「育ててやった恩を忘れたか⁈」

などと親子喧嘩などで言われる場面があったりしますが、私は断じてそれは違うんじゃないかと思っています。

もちろん

「頼んで産んでもらったわけじゃない‼」

なんていうのもまたそれはそれで、言ってはならない言葉ですが。

 

いずれにしても恩に着せるということは、それは正しくは恩ではないと私はそのように解釈します。

 

「恩を仇で返す」などと言う言葉を口にするのは、もともと見返りを求めていたということなのでしょうか?

そんなことはないと思います。

 

初めは本気で相手のことを思い遣ってのものであったと思います。

何かしらのいきさつでズレが生じ諍いになるなどした結果、そんな売り言葉に買い言葉のような歪ができるのでしょう。

 

もし、そうではないのなら、初めから見返りや認めて欲しいといった承認欲求のようなものが土台となっていたのではないでしょうか。

 

「家族のためにあれも自分がした、これも自分がしてやった」

先に挙げた故人のそんな言葉に、やはりどこかモヤモヤしたものを感じずにはいられませんでした。

(故人のことを良くないように言うのは自分でも後ろめたいものはありますが……)

 

いずれにしても、あくまでも「恩を受けた」と受け取り側がそう思えることのみが本当の意味での恩ではないでしょうか。

与えるのが恩ではなく、受け取り手がそう感じたものが恩であると。

 

みなさまはどう感じられますか?

 

以上、好奇心からの便りでした。

お立ち寄りありがとうございました。

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直近更新記事2024年11月25日

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